2020年12月20日、日曜日。
友人からのLINEで知ることになりました。
Fリーグに所属する湘南ベルマーレフットサルクラブNo.5久光重貴選手が逝去。
フットサル界に悲しいニュースが届いてしまったのです。
今回の記事は、小生の思い出も交えて、
久光選手がいかに素晴らしい人間だったかを今後も皆さんに伝えていくきっかけとなる記事です。
Fリーガー:久光重貴選手との出会い
元々小生は、フットサルをプレーすることも観戦も大好きでした。
中でも、湘南ベルマーレフットサルクラブは地元でしたし、知っている選手もいたりして、クリニック(選手が教えてくれるレッスン)も参加していました。
確か、ヒサさんとはじめてお会いしたのは、今から10年ぐらいだったと思います。
見た目の怖さとは真反対で、ヒサさんと同じチームに振り分けられた小生に対して、優しく声をかけてくれたことは今でも鮮明に覚えています。
試合中のヒサさんは、相手に対して厳しくいったり、闘争心を剥き出しにプレーする熱い選手だったので、そのギャップに驚きました。
間近で見るヒサさんのプレーは、もちろん当然ですが力強くテクニックも凄かった。
試合会場でバッタリお会いした時も、ヒサさんから握手に来てくれるファン想いの人でした。
小生もフィジカルを鍛えていた頃、小生の胸に目がいったヒサさんは、
「ぼくより胸板厚くなってませんか?!」って・・・。
「いやいや、そんなわけないじゃないですか~!!」
なーんて答えたことも鮮明に覚えています。
久光重貴選手の経歴
久光重貴選手は1981年生まれの神奈川県横浜市出身。
小生のフットサル仲間も所属していた少年サッカーチーム「つばさ」出身で、その後は東京ヴェルディジュニアユース→帝京高校でサッカーをプレー。
その後はフットサルに転身、当時では伝説のチーム『カスカヴェウ』に所属し、一時代を築く。
2007年、フットサル全国リーグのFリーグが発足し、カスカヴェウはペスカドーラ町田となり、開幕戦では2得点を奪う活躍。
翌年2008年に湘南ベルマーレフットサルクラブに移籍。
2009年にはフットサル日本代表に選出。
順風満帆なフットサル人生のはずだったが、2013~2014シーズン前のメディカルチェックにおいて、右上葉肺腺ガンが見つかった。
右鎖骨に隠れるような位置だったため、発見された時はすでに転移もあり、医者からは余命宣告をされる寸前、久光選手は余命を聞くことを断った。
以降、治療を続けながら、一時期は選手として復帰し試合にも出場しました。
その傍ら、同じく当時現役Fリーガーで、上咽頭ガンと闘っていたデウソン神戸の鈴村拓也選手(現在はデウソン神戸監督)と共に『フットサルリボン』を立ち上げられました。
『フットサルリボン』とは、ガン検診啓発だったり、小児ガン患者への支援を行う団体です。
久光選手は、自ら小児病棟を訪れ、ご自身の経験を伝える講演や、子供たちと一緒にフットサルをプレーするなど、精力的に活動をされてきました。
DMMオンラインサロンでの久光重貴を応援する会
闘病生活を続けながら、ヒサさんはオンラインサロンを発足しました。
オフィシャルのTwitterやブログでは見せない弱気な自分もさらけ出していきたいとおっしゃって立ち上げられたそうです。
当然、小生はヒサさんを応援していくわけで、サロンに入会しました。
月々1,000円ちょっとの会費でしたが、治療や活動費に充てられるなら、微力ながらでも応援したかったので。
第1回目は神奈川県川崎市で開かれました。
その時、1人で来ている青年がいたんですけど、小生の奥さんが声をかけました。
「フットサルやってるんですか?!」
「今どこかのチームに入っているんですか?!」
「入ってないなら旦那のチームに入りませんか?!」
どんだけ押せ押せなんだよと思いましたが、
その彼は元々静岡県の名門サッカー部出身で、ちょうど神奈川に仕事で出てきてすぐの時期でした。
特に決まったチームに所属していなかった彼は、小生のチームに入ってくれてました。
今でも仲の良い関係です。
そんな出会いもヒサさんのおかげです。
悲しい一報をLINEでくれたのが、実はこのHだったんです。
この時の会は2時間ぐらいでしたが、ヒサさんの赤裸々な話しを色々と聞けました。
病気のことよりは、どちらかというとフットサルの話しを聞きました。
帝京高校サッカー部はどうだったとか、カスカヴェではどうだったのかとか、
ベルマーレでは誰とのセットがやりやすいとか、普段聞けないことをたくさん聞けた貴重な会でした。
最後に、ヒサさん愛用のグッズが当たるゲームが行われました。
小生はベルマーレ公式ボストンバック、奥さんはベルマーレ公式ベンチコートが当たりました。
どちらも実際にヒサさんが愛用していたものです。
我が家の大切な宝物です。
2回目の会は、前述のデウソン神戸の鈴村選手と、ブラインドサッカー日本代表の加藤選手も参加されました。
ヒサさん、鈴村選手、そして加藤選手それぞれのお話しがあり、実際にブラインドサッカーを体験するコーナーがありました。
小生も体験しましたが、あれは無理です!!
ボールの中に鈴が入っていて、目隠しをされてパス交換をしましたが、まともに蹴れませんでした。
もうね、思った以上に無理でした。
「共に前進!!」ヒサさんと共に・・・
「共に前進!!」
ヒサさんがよく発していた言葉です。
元々は、ヒサさんと同じ病気の患者さんから言われた言葉だそうです。
確かに、頑張っている人に頑張れっていうのも・・・、
何か良い言葉ってないかなぁといつも思ってました。
「頑張れ!!」っていうのは、一方的だけど、
一緒に頑張って行こうね、一緒に前を向いて進んで行こうね。
その患者さんは、ヒサさんと共に戦っていこうぜ!!という決意から、
「共に前進しましょう!!」とヒサさんを励ましたそうです。
それからは、ヒサさんは色々な方々に「共に前進!!」と発信し続けてきました。
本当に良い言葉だと思います。
39歳という若さ、
まだまだボールを蹴り続けたかったことでしょう。
7年という長い年月、亡くなる直前までピッチに立つことを生きる目標にして闘病されていました。
オンラインサロンでは、つい最近までの画像もアップされていました。
過去の投稿を読み返すと、ちょうど1か月前ぐらいで更新は途切れていました。
酸素ボンベが手放せないと画像をアップしているヒサさんは笑顔ですが、おそらく辛いのに無理やり笑っている気がします。
悔しい気持ちもあったり、無念さもあったかと思います。
それでも、常にファンの方や病気で苦しむ子供たちを思いやることができるヒサさんは、本当に素晴らしい人です。
なんでこんな素晴らしい人が若くして・・・、とは敢えて思うようにしません。
病気になってから、落ち込むこともあったり、不安になったこともあったそうですが、人間なら誰でも当然だと思います。
それでもヒサさんは、自分が病気になったことを前向きにとらえて、そんな自分にしかできない使命を全うされてきました。
小児ガンの子供たちに、自分がまた試合に出ることで希望を与えられると、一生懸命リハビリをして、有言実行でピッチに戻ったこともありました。
命ある限り希望を捨てずに燃え続けている生粋のフットボーラー久光重貴の姿を小生は忘れません。
苦しい時、落ち込んだ時、
「共に前進しましょう!!」とハッパをかけるヒサさんの頑張っている姿が思い浮かぶ限り、
自分の中で生き続けていきます。
うん、共に前進です。
久光重貴
1981.7.8~2020.12.19
ありがとうヒサさん。